講師: 江崎 浩
東京大学大学院 情報理工学系研究科 教授
ゲスト:中野 剛志
経済産業省 ITイノベーション課 課⻑
インターネットが一般的になりつつあった2000年頃に話題になった「e-Japan戦略」を覚えているでしょうか。当時、日本はITビジネスの研究開発で後れを取っており、「世界一高くて遅いネットワーク」と言われていました。実際に、AppleやGoogleなど世界的に有名なIT企業の多くは、アメリカ発祥です。そこで、世界最先端のIT国家となることをめざして作られたのが「e-Japan戦略」でした。ITを活用して産業競争力をあげるためには、インフラの整備などに加え、それを使ってイノベーションを起こす人材育成が大きなミッションになります。当時立ち上げられたIT人材育成プロジェクトは、経済産業省の「未踏事業」として現在も続いており、社会を変革するIT人材を多数輩出しています。
今回は、経済産業省で同事業に取り組むITイノベーション課 課⻑の中野剛志氏をゲストにお迎えして、未踏事業で「ITの天才」をどのように育成してきたのかお伺いしたいと思います。
江崎:経済産業省の未踏事業は2000年スタートだったと思いますが、ITで突出した人材をオールジャパンで育てていこうというプロジェクトでした。改めて事業の経緯と成果をご紹介いただけますか。
中野:時代の変化に伴い、最近は未踏事業のターゲットも広がってきているのですが、まずは歴史のある「未踏IT人材発掘・育成事業」からご説明します。これはいままで⾒たことない「未踏的な」アイデア・技術をもつ「突出した⼈材」を発掘・育成する事業で、25歳未満の天才的な個人を対象としています。産学界のトップで活躍する⽅にプロジェクトマネージャー(PM)になっていただき、9カ月かけて独創的なソフトウエア開発に挑戦します。開発費として230万円支給しています。
江崎:若いというのが特徴ですね。U25は伸びますから。
中野:はい、大学生や大学院生が中心です。未踏事業では、最初にブースト会議という泊まり込みの会議があるのですが、そこでPMや未踏事業の卒業生であるOBたちから自分のプロジェクトについて厳しい突っ込みを受けます。そこから個別指導も受けながらブラッシュアップしていきます。9カ月後に成果報告会があるのですが、ブースト会議からの伸び方はすごいですよ。人間ってこんなに成長するのかと驚かされます。やはり、PMやOBたちからの刺激が大きいみたいですね。
江崎:18年やってきて成果はどうですか。
中野:すでに1700人以上のITの天才を輩出しています。例えばプリファードネットワークスの西川さんやグノシーの福島さん、筑波⼤学准教授の落合さんなども未踏の卒業生です。ちなみに卒業生全体で言えば、起業する人と大企業に就職する人とアカデミズムの世界にいく人で、ちょうど3分の1ずつになっています。起業することだけが目的ではなく「君たちのやりたいことを思う存分やってみなさい。その先は君たち自身で道を開きなさい」というスタンスでやっています。
江崎:ポートフォリオ的にはきれいですよね。3分の1は起業にチャレンジし、3分の1はレガシーな企業で暴れ、3分の1は次の世代を育てていくのですから。
中野:まさに「黄金比」ですね。ここに来るような天才的な個人は変わった人が多いので、孤独になりがちです。でも、こうやって卒業生がいろんな業界で活躍することで、つながりができていくのも大きいと思います。
中野:18年やってきて「秘伝のタレ」というか、天才の育て方のノウハウは蓄積されてきたと思います。一方で難しいことも出てきています。IT革命が起きた1990年代後半や2000年代の政策担当者の問題意識は「一人の個人が世界を一変させる時代がきた」というところにありました。だから施策も個人にフォーカスをあてていたのです。ところが20年くらいたつと、さしものITも成熟化し、デジタルネイティブと呼ばれる人たちが出てきました。そうなると、例えばスティーブ・ジョブズが同じ能力で今生まれたとしても、当時のように世界を一変させたかというとたぶん難しいのではないかと。つまり、個人一人でどうにかなる世界ではなくなってきているのではないかと感じています。
江崎:そうなると、チームとして何かをやっていくということになりますか。
中野:尖った個人を育てたいというのは変わらずありますが、今後は自分にないものを持っている人を見つけてきて巻き込んで、チームでプロジェクトを動かす力が必要になってくるのではないかと思います。そこで平成30年度から始めたのが「未踏アドバンスト事業」です。こちらは年齢制限がなく、チームで応募することを推奨しています。「自分はテクノロジーが得意だけど、ビジネスはあいつが得意」ということはよくありますよね。みんなジョブズがすごいと言うけれども、Appleはウォズニアックがいたから成功したように。「未踏アドバンスト事業」ではアンドロイドで有名な石黒先生などのほか、Toyota Research Institute CEOのギル・プラットさんが全体のアドバイザーとして、Toyota Research Institute Advanced Development CEOのジェームズ・カフナーさんがPMとして参画してくれています。海外の空気も取り入れつつやってみたいと思っています。
江崎:18年やってきて国内の体制も整い、ビジネス化に成功している先輩も出てきて、海外に出ていける体制も整ってきているのですね。よく言っているのですが、国内マーケットでちゃんとやってからグローバルを考えなさいと。ジョブズにしてもアメリカのマーケットを取ったうえで次のステップに進んでいます。
中野:そうですね。長く不景気が続いたとはいえ、内需が大きいのが日本経済の特徴です。また、他国と比べて消費者の要求が高いというのも特徴のひとつです。そういう国内マーケットでやっていくことで、技術やビジネスモデルや人間が鍛えられます。なぜカフナーさんやプラットさんが「未踏アドバンスト事業」に参加したいと思ってくれたのか。なぜ日本に興味があるのか。外から見えるような私たちの強みを生かしていかないといけないと思っています。
江崎:こういう仕掛けを企業でもできればいいですよね。
中野:未踏事業を開始した2000年当時は、こういったいわゆるアクセラレータープログラムは世界でも珍しかったのですが、今は民間でもいっぱいあります。その中で政府がやる意義は何かというのは、常に意識しています。民間はすぐに利益になるか、成長するかというところを重視します。それに対して、すぐには芽が出ないけれど大きなことを考えている人に長期的視点でお金を出すというのは政府にしかできない仕事です。そこで今トライアル中なのが「未踏ターゲット」です。今話題になっている量子コンピュータの領域で、組合せ最適化計算に秀でる「アニーリングマシン」を題材とした人材育成です。
江崎:ノーベル賞を取るような考え方ですね。
中野:ノーベル賞のビジネス版に近いですね。正直なところ、未踏事業で扱うテーマが小粒になったらどうしようという心配がありました。2000年頃と違って、今はITでビジネスがやりやすい時代です。気の利いたアプリ1つでさくっともうけることも可能です。でも、そういったことに税金を突っ込むわけにはいきません。その点「未踏ターゲット」で扱う量子コンピュータはすぐにビジネス化できません。もともと量子アニーリングは東京工業大学の西森先生と門脇先生のアイデアです。先生方はビジネスで生かせると思わずに論文を書いたそうですが、2011年にカナダのベンチャー企業が商用機を出してしまいました。わが国で出たアイデアをわが国でビジネス化できなかったのは悔しいです。とはいえ日本も負けておらず、日立や富士通などもアニーリングマシンは出しています。そこで「未踏ターゲット」では各社と連携して、学生たちに産業用アプリケーションを考えさせています。「お金を出すから好き放題いじりなさい」と。日本はハードウエアを作るのは得意ですが、ソフトウエアを作るのが遅れがちです。海外に先にソフトウエアを作られてしまうというのがこれまでの負けパターンだったので、未踏という人材育成の仕組みを使ってソフトウエア人材を育成しようとしています。どんなものが出るかわかりませんが、アニーリングの技術はAIにも使えると最近盛り上がっているのでまずはやってみようと。
江崎:好き勝手というのがいいですね。そうじゃないとうまくいきませんから。
中野:この手の政府主導の事業は失敗続きでした。「未踏事業」がなぜうまくいっているか。成功要因は2つあると思っています。1つめは、これまでは企業に補助金を出していましたが、未踏事業では個人に補助金を出していること。2つめは、PMが独自の視点で採択事業を決定すること。未踏事業は全会一致ではありません。例えば皆が「これはダメだろう」と言っても、1人のPMが「この人に賭けてみたい」と思えば採択されるのです。人と人が共鳴しあうというのがこの事業の面白さですね。
江崎:企業に補助金を出すと制約が出てきますからね。忖度もするでしょうし。個人に出すと責任感も出てきます。合議制じゃなく「俺がいいと思うヤツに賭けさせろ」というのもいいですね。
中野:また、未踏事業の特徴として、国からお金は出しますが、開発成果で出た知的財産権はすべて開発者のものになるというのもあります。
江崎:ソースコードは政府のものとか言い出すのではなく、知的財産権を自分が持てるというのはインセンティブになりますね。
江崎:未踏事業の開始当時から携わっている先生がおっしゃっていたのですが、最近の参加者は生まれた時からITが前提にある世代なので、以前とは質が変わってきているそうです。
中野:そこは大事な観点で、ITが前提の時代に向けて少し軌道修正をしなければいけないと思っています。典型的なのはIoTで、要するにバーチャルな世界だけではなくリアルな世界に染み出してきているのが今です。言い方を変えれば、ITの世界だけでやるのは飽和状態ということです。だから、Googleもリアルなデータの世界にきていますし。ITの世界とTの世界、つまりものづくりの世界は以前は違うものでしたが、今後は両方できないといけなくなります。そうなると人材の育て方も変わってくるでしょう。ITの尖った部分は残しつつも、Tの世界は一人ではできないので先ほど言ったようなチームでやる力も必要になってきます。
江崎:落合先生のようにハードもソフトもという人も出てきていますし、これまでいなかったような人材が育ってくるでしょう。
中野: ITの世界ではアメリカが先行して、中国も台頭してきています。それではものづくりの世界はどうでしょうか。日本は相対的にものづくりに強いですが、今後IOTの世界でどうなっていくのかはわかりません。ITが前提となっているデジタルネイティブの力をリアルの世界でうまく融合させられるか、今が正念場だと思っています。
江崎:最後に本日の話をまとめたいと思います。中野さんのお話をお伺いして、未踏事業は2000年の開始当時から大きく進化していることがわかりました。20年近くたつと、IT人材も質が変わってきていますし、個人からチームへという流れにもなってきています。また、海外からも人が入ってきて、次のステップに進んでいます。未踏事業の今後がますます期待できそうです。
<著書>
『インターネット・バイ・デザイン 21世紀のスマートな社会・産業インフラの創造へ』(東京大学出版会)
『ネットワーク工学-インターネットとディジタル技術の基礎』(数理工学社)
『なぜ東大は30%の節電に成功したのか?』(幻冬舎) など
<著書>
『TPP 亡国論』(集英社)
『経済と国民 フリードリヒ・リストに学ぶ』(朝日新聞出版)
『日本思想史新論-プラグマティズムからナショナリズムへ』(筑摩書房)
『国力とは何か-経済ナショナリズムの理論と政策』(講談社)
『日本の没落』(幻冬舎)など。